集団疎開の思い出

                朝倉邦夫


 昭和20年3月19日朝、米軍艦載機による軍港攻撃が行われた。
私は古江町の一番上の横穴防空壕から、子どもなので、これをおもしろく見物していたが、これを契機に呉市の学童集団疎開が始まった。

 私(3年)は、兄(6年)とともに、本校第1陣の疎開に加わり、4月7日、三原の奥の本郷町の仏通寺へ行った。
 到着した翌日は、お釈迦さんの誕生日を祝う花祭りがあり、仏通寺の本堂前で餅まきがあった。
餅撒きは初めての経験で、食糧不足の中で、さすがは田舎には食料が有るのだなと思った。
 男女各20名ずつが二つの支坊に分宿し、男子は渡辺先生(ひょうたん)の指導で生活した。
最初にしたことは、朝夕の食事前と就寝前に唱える般若心経とその写経であった。
3年生には難しすぎる字で、憶えるには大変でしたが、集団疎開が私にもたらした効用は、
命が助かったことと、これを憶えたことにつきている。

生活は、村人の温い差し入れもあったが、雑炊等を主に、少量で常に空腹であった。
しかし、昼食時に、弁当箱に半分くらいの麦飯に梅干しだけの私たちの隣では、
農村であるにもかかわらず、水だけ飲んでいた朝鮮人の友人のことも忘れられない。
 仏通寺の境内には桜がたくさん植えてあり、サクランボがなっていたので、
熟れるのを待ちかねて、熟れる端から毎日思う存分食べ、幸せであった。
 ワラぞうりを毎日つくっては、数キロ歩いて通った本郷小学校の帰りみち、
野イチゴや野草をとってたべながら、「今に神風が吹いて日本は勝つ」といった話をよくした。
神風のかわりに原爆が落ちたが、毎日お寺で、モールス信号の訓練をさせていた先生も、
9月には米軍の優秀性と原爆の科学を話しておられた。

 8月14日から1日、お盆休みとして、村人の家へ1日里子に出され、ご馳走してもらった。
美味しい餡の入った柏餅が山のように食卓に並んだ。
早速一つ取り、食べたら大変美味しく、二つ目に手を出した。とたんに怒られて、
この柏餅はお前のために作ったのではない、よく働いてくれた牛のためだと言って、
その柏餅のほとんどを牛に投げ与えて食べさせた。
これにはビックリし、なんと勿体ないことをするのか、人間と牛とどちらが大切か!と思った。
働かないで村に迷惑をかけている集団疎開の学童と、労働力の中心である牛との価値の違いを思い知らされた。

15日の昼、玉音放送があり、よく判らないが終戦らしいという話を聞いた。
 子どもの世界も集団生活の中では派閥抗争があり、当初優勢であった派は、
敗戦の報を聞いたその日に、もう一派の暴力で降参し、支配権が交代した。
この子どもの戦争の経過は大人顔負けの凄まじいものであったが、
先生はそれを知りながら知らん顔をして集団生活の維持に利用していた。

呉の7月1日の空襲はラジオをつけていたので、その日のうちに知っていたが、家のことを皆が心配していた。
幸い、私の母と妹は、7月1日に本校第3陣の疎開先の小坂寮の寮母に行って助かっていた。

終戦になっても呉が焼けていて帰れないでいるとき、河野の小父さん(のち家具店)が様子を知らせにきて、一緒にリ帰ることになった。
9月17日の枕崎台風で、鉄道と道路が寸断されたので、18日に山越えをして、竹原に出て、
交渉して借りた漁船に乗つて呉の東端の長浜に上陸した。
 長浜で交渉して雇ったトラックに乗って、本通9丁目(現在、本通4丁目)の学校前に着き、
「家がなかったら本通小へ帰ってこい」という先生の声をきいて解散した。

 見渡すかぎり焼け野が原で、なっかしい家までの距離は非常に近く感じられた。
三角兵舎の家へつくと、父は空襲と枕崎台風の時の負傷で寝ていた。
 本通小は焼失したので、その後、吾妻小をかりて授業が始まった。